社会科学徒のエディトリアル

広くは社会科学・狭くは経営学・会計学。学部4年生です。研究者目指します。

放送法の議論の帰結は、ガバナンス論ではないか

こんにちは。ブログ開設の時期もあって、ちょっとこの話題を投下するには旬が過ぎたかなあと思うところではありますが・・・気にせず投下することにします。

 

少々前の話になりますが、テレビ等のメディアで、放送法改正に関する議論が活発に行われていましたね。

ただ、その中で僕の頭に引っかかる疑問に答えてくれる言論の少なさたるや・・・というのが、その議論を視聴者として見ていた僕の実感です。

 

その、「頭に引っかかる疑問」というのが以下の2つです。

 

  • 反対派と賛成派で論点が違うから、話が平行線になるのではないか
  • 一番にアプローチすべき問題の根幹はどこか

 

 

反対派と賛成派で論点が違うから、話が平行線になるのではないか

 そもそもこの議論は、2月の国会における高市総務相の「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにいかない」という発言から沸き起こったものです。

 これまで放送事業者による情報の真実性・公平性等を規定した放送法第4条は、国民の権利である「表現の自由」を一番に尊重するという理由から、法的拘束力を持たない「倫理規範」として事業者の自律を促すものでした。

その意味で、あまりに政治的公平性を欠く場合は行政による介入もあり得る、という立場を示した高市総務相の発言は物議を醸した訳です。

 

 僕自身としては、行政による放送への介入は今後も行われるべきではないという立場です。

ただし、世の高市氏反対派の主張の多くは、議論の的を射ていないと感じます。

というのも、今回の議論の主眼は、高市氏が指摘したおおもとの問題は、「放送事業者による政治的公平性を欠いた行為」だからです。

世にあふれる多くの反対派の意見は、高市総務相の発言を「政府に批判的だという理由で政府が放送に介入してよいというのは、言論統制だ。安倍政権の強権政治だ。」という論に展開しています。

あるいは、「国が情報をコントロールすることは、民主主義を歪め、公共の福祉に反する」といった論調です。

これでは、完全に論点が変わってしまっていると思います。

国による放送事業への介入はあってはなりませんが、それと放送事業者が政治的公平性を欠いた行為をしてよいかという問題は全く別の話です。

 

放送事業は国からの認可を得て行われている極めて公共性の高い活動であり、その社会的な影響力も非常に大きいです。

今回の問題において政治介入の論点に引っ張られている方には、一つ質問を投げかけたい。

高い公共性を有する放送事業者がプロパガンダを行うことは、公共の福祉に反しないか?

批判をする前に、相手が何を主張しているのかを一度かみ砕くことは大事だと思います。

 

一番にアプローチすべき問題の根幹はどこか

 これまでの議論を踏まえると、問題は放送事業者の行為の政治的公平性であり、ひいてはそういった放送事業者の行為に対するチェックが働いていないことです。

つまり、放送事業者が自律的に自分自身の政治的な公平性を保つ仕組みになっていないことが問題な訳です。

これは、まぎれもなくガバナンス(統治システム)の問題であると考えられます。

 

現在の形式としては、第三者機関としてBPO放送倫理・番組向上機構)によるチェックが行われているのですが、高市氏の騒動や世の偏向報道に対する議論等を見る限り、彼らの言うような「自律」的なガバナンス体制が整っているとは言い難い状況にあるように感じます。

 

一つの原因としては、第三者機関の権限の弱さが挙げられると思います。

2015年9月時点(最新)の名簿を見る限りでは既に構成役員の独立性に関しては問題ないと感じるのですが、権限があまりにも弱いように感じます。

 

委員会が放送局に対して行うのは、勧告、見解、意見の通知です。放送局に命令、指示など強制力をもって義務を課す権限はありません。

BPOのホームページhttp://www.bpo.gr.jp/?p=3637より)

 

これでは、「シャンシャン総会」よろしく、第三者機関には適当に対処しておけば見た目上のイメージは良くなる、というような形骸化した統治体制を許してしまいます。

放送事業者の自浄作用によって自律的な体制を作ることができないのであれば、BPOの権限を「責任者を降板させる」くらいの厳しいレベルにまで引き上げることも検討されるべきではないでしょうか。