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社会科学徒のエディトリアル

広くは社会科学・狭くは経営学・会計学。学部4年生です。研究者目指します。

「失敗、経験してナンボ」という類の言論に思うこと

「失敗の経験が人を強くする」という類の話は、今やどこでも聞けるものになっています。

人物評価における加点評価の選択肢をポピュラーなものにし、より多様なタイプの人間が正当に認められる風潮を作ったという点で、この言論は一定の価値があるものだと思います。

ただ、このフレーズが独り歩きし、世を牛耳る盲目的なスローガンとなって欲しくはないなというのが僕の考えです。

例えば、「失敗を知らない人間はダメだ」という言論はある意味で正しいと思いますが、この言葉の意味を人々が履き違えれば、途端に不毛な争いを招くでしょう。

今回は、現在支配的になってきたと思われる上記の言論の解釈と、その潮流の中で僕が懸念する言論の対立を書き起こしてみました。

 

価値ある「失敗」と、回避すべき「失敗」

「失敗が人を強くする」という言論と同じように、

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という格言があります。

 

前置きとして僕の考えを述べますが、この2つの言論の意図するところは、相反するものではないと思います。

過去に誰かが犯した失敗を学ぶことで、自分が同じ状況において失敗しないように振る舞うことができます。

他方、誰も経験したことのない「失敗」は、失敗した人自身やあるいは他者が今後において学ぶべき「歴史」となるのです。

 

失敗することの価値は、それが新たな歴史として明日への示唆を生むことなのだと思います。

反面、明日への示唆の無い失敗は、本来回避すべき「価値のない」失敗だということです。

 

「腹落ち」のための失敗や経験

しかし、その本来的に「価値のない失敗」をすることにも、一定の合理性がある場合というのはあると思います。

それは、その人が「他者の経験を字面で学ぶより、自分自身の経験による方が、周りで起きている事柄をより速く自分の中で体系化することができる」場合です。

要は、字面を追うだけではその失敗の仕組みを腹落ちさせられない場合のみ、「価値のない失敗」を経験することに一定の価値があるということです。(変な言い方ですが)

 

「腹落ち」させるのに、どちらが早いかというだけの話

世の中にはしばしば、論理サイド現実サイド(イメージはつくと思います)の不毛な言い争いが発生します。

しかし、本質的に双方が目指す姿は食い違うものではなく、「どちらの手法を取るのが理想に早く近づけるか」という側面で言い争っているに等しいと考えます。

 

論理サイドが言われがちな「頭でっかち」という言葉は、まだ理想に到達できていない時点、つまり字面を「腹落ち」させられていない段階の人に対する批判なのでしょう。

現実サイドのそれは、最初に引用した格言の「愚者」でしょう。これも、本来他者の経験から学べば回避可能な失敗を不用意に重ねてしまっている人に対するものです。

 

相対的に、自分がどちらを重視するタイプなのかというのは、各々思い当たる節があるのではなかろうかと思います。

こういったアプローチの違いは、しばしば自分側に都合の良いように解釈し、固定観念を作り上げる流れを作りがちです。

僕も自分で論理サイドの主張の強い人間だと思っていますが、きちんと現実サイドを視野に入れて「腹落ち」を積み重ねていかないと、きっと「頭でっかち」で終わってしまうのだろうと思います。

 

世間には、一見対立しているように思える言論や概念が幾つもあります。

しかし、その論争において、双方の目指す姿、意図する姿がどのようなものかを見つめれば、どういった歩み寄りが可能かは何らかの形で見えてくるのではないかと思います。