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社会科学徒のエディトリアル

広くは社会科学・狭くは経営学・会計学。学部4年生です。研究者目指します。

"文系崩壊"論の違和感

最近のニュース等のメディアにおける言論を見ると、テクノロジーの発達を受けて国が「理系」教育に人的資源を集中させ、「文系的」な職業が消えていくという意味合いで、「文系崩壊」という言葉が使われているようです。

議論自体は面白そうな内容もちらほらありますが、正直この言葉はミスリーディングを生むものに見えて仕方ありません。

「文系」という言葉を、あまり曖昧な意味で使うべきではないと思います。

 

 定義が不適切なら、それは「エセ比較」の詭弁にすぎない

どうやら先述の言論における「文系」は、営業や事務職を指すようです。

まず、ここに違和感を感じたいところ。というのは、この定義が「文系」の学術性を無視し、「理系=専門性がある」「文系=専門性が低い、代替可能」という命題をさも当然成り立つかのように前提として置いているからです。

「理系」については学問的側面・職業の側面双方が検討されているのに、「文系」は職種のみによって定義されているということです。

この定義から導かれる言論は、「専門性の低い職業は代替される」という事を言っているに過ぎず、「文系崩壊」という言葉を字面通りに解釈した意味とは整合しないものです。

「文系崩壊」と言いたければ、「文系」と表現される学術的な側面も考慮した上で、それが「必要のない」ものであると主張しなければなりません。

 

「文系」の専門性

学問的な側面を含めれば、「崩壊」などという言葉は出てこないと思います。

例えば、経済学者は世の中に不要か、と問われたとき、どれだけの人間が「はい」と答えるでしょうか。

しかし、「文系は必要か」という問いに変えてみると、世の人の反応は少し変わるように思います。

 

なぜか。僕の考えでは、社会科学に代表されるいわゆる「文系」の学問を学ぶ「学生」の多くは、その専門性を実感できないまま大学を卒業していくからではないかと思います。

たとえば代表として挙げた社会科学では、科学の対象が「社会」であり、その「社会」は、定義上ほとんど全ての人間の帰属主体であります。

換言すれば、ほとんどの人間が「社会科学」的なテーマについて見聞きしたことがあるのが当然なのです。

もっと言えば、対象が身近ゆえに「もっともらしく語る」ことが一番容易であるということです。

 

世間に同じような事を声高に叫ぶ人たちがワンサカといる中、その人たちと比べて、自分に何の優位性、専門性があろうか。

こんな事を考えてしまうというのは、いわゆる「文系」の大学に通う人間なら、意外と起こりうることであると感覚的に理解できると思います。

ただし、「文系」も「理系」も、アカデミックの世界は非常に科学的で、高度に専門的です。

どちらも、世界に発生する事象から、普遍的な事実を抽出し体系化するという意味では同じ事をしています。

 

僕は商学系の大学生ですが、周りにも「商学を学ぶより実務をしたほうが実用的だ」と言う人はいます。

しかし、これは学術と実務を混同しており、「文系の専門性」を得た人間の発言ではありません。仮にも「学部」生であるなら、この発言は失格と言わざるを得ないでしょう。

 

こういった人たちが「専門性が無い」と表現されるのは仕方のないことです。

ですが、それを「文系」批判に繋げるのは、論点が違うぞと、僕はそう指摘したいのです。

文系の「科学」の側面さえも批判するのであれば、「理系の科学」が文系のそれとどう違い、どう意義深いのかを主張してもらわなければ、「文系」の人々は嫌な思いをしてしまうのではないでしょうか。

論点は少し変わりますが、科学の役割さえも代替され得るのであれば、アカデミックな世界も社会的な意味付けの変容を求められるのかもしれませんね。